Essay

葉々斎の呟き(9月18日)『失われた30年で得たもの』

香港の自由化の先頭に立ち「学民の女王」と呼ばれた周庭(しゅうてい=アグネス・チョウ)。香港が中国の支配下に置かれ、彼女は身の危険を感じてカナダで保護の下、生活を送っている。大の日本贔屓で「日本語」はペラペラ、特に、民主、自由を求めるメッセージを日本語で行っている。そこで日本語が自由を求める若者の「言葉」として採用されていることを、我々の誇りとしていいのではないか?
中国、香港に限らず世界各地で非民主主義下、自由な生活を享受できない人々が日本製アニメ、漫画、音楽、映画すなわち「日本文化」と通じてコミュニケーションが取れる世界を想像する。いや実現しつつある。30年前にはなかったことだ。
日本のパスポートは「最強のパスポート」と呼ばれている。日本のパスポート保持者は事前にビザ(査証)を取ることなく訪問できる国の数が最も多いためだ。日本のパスポートによって身元保証された人物即ち日本人の信用度が世界最強ということになる。既に6年間、この地位にある。
「失ったもの」「得たもの」となかなか判別がつかない。恐らく世界中の国々で自国の地位というものをそれぞれ考えているのだろう。
世界的国家ブランド力調査「アンホルトーイプソス指数」(NBI=Nation Branding Index)とう指標がある。パリに本社を置くイプソス社とサイモン・アンホルト氏の国家ブランドという分析により毎年国別ランキングを発表する。2023年に初めて日本が世界一にランクされた。奇しくも024年に日本をGDP指標で逆転したドイツが6年間世界一に地域に居続けていいた。このインデックスは「文化」「国民性」「輸出」「統治-安全」「移民・投資」などからなっている。2008年以来、世界一の座はドイツ(7回)アメリカ(6回)の二国が競っていた。日本は常に5-6位以内に位置づけられていたが2019年の5位にランクされてから毎年ランクを一段づつ上げとうとう一位になった。まさに「失われた30年」、しかもGDPがドイツに抜かれたと時を同じくして首位奪取である。
GDPの意味合い、「失われた30年」の意味合いを多角的に検証しなくてはならないという証とも言えるだろう。
この「失われた30年」では、今一度自分の生まれ育った国の姿を見直す機会、あるべき姿に「気付く」機会が最大の「得たもの」であったのだ。

付記:4月11日に岸田首相は米国連邦会議上下両院合同会議で約35分に及ぶスピーチを行った。メッセージは「希望の未来へ」と題し、「米国は一人ではない。日本は米国と共にある」という内容だった。
この「失われた30年」で何を失い、何を得たのかを考えてみた。つくづく敵国として戦った米国と敗戦国の関係は勝敗に関係なくと言いたいどころだた、やはり勝者へのへりくだりがあった。少なくとも勝者の顔色をうかがい忖度を重ねてきたと感じる。
レーガノミクスの下支えは、プラザ合意によるドル危機の回避であり、同時に米国得意のカネむけ(Monetize)のたゆまぬ技術革新とそれを基にしたビジネスモデルの開発により米国経済復活を実現した。日本の失われた30年は米国経済復活の30年と一致する。
それはあたかも、60年、70年、80年代の「ジャパンアズナンバーワン」ともてはやされ国民が豊かになり蓄財したものを、米国救済というよりも吐き出したともいえる日米にとっての30年ではなかったか。
ところが今回の岸田首相訪米では歓迎を受けたのは、日本の国防費増大という矛盾の財政政策を救ったことの二重写しだ。
「失われた30年」で何を得たのか?日本独自の考え方をしっかり持ち、独自の国のかたちを常にバージョンアップするという当たり前のことに「気づいた」こと、「気づかなくてはならない」と自覚することを「得たもの」とすべきなのであろう。(4月14日)

葉々斎の呟き(9月17日)『失われた30年で得たもの』

「アニメ、漫画」の世界的なブームは日本がけん引している。日本語を学びたいという若者は大半がこのアニメ、漫画のファンでそれから日本に関心を持ち、日本語を話してみたいとなっているようだ。そして何とか日本に来てみたい。アニメや漫画に描かれた現場を見てみたいというのだ。フランスでのアニメの見本市などでは日本でおなじみのキャラクターの恰好をした各国の若者がぞろぞろ歩いている。そして何と片言の日本語で外国人同士が話している。アニメソングは当然のように日本語で競うように合唱している。
「スポーツ」の世界でも大きな変化があった。日本人プレーヤーの海外進出が当たり前になった。まず、ベースボール大リーグでプレーするのが夢では無くそこを目指して少年野球時代から練習に励んでいる。1995年の野茂につづき多くの選手が大リーグに羽ばたいた。
松井のワールドシリーズでの満塁ホームラン、イチローの年間最多安打そして2023年WBC(World Baseball Classic)での世界一、その年、大谷翔平がなんと大リーグでホームラン王になった。今や、一つのゲームで両軍に複数の日本人プレーヤーが登場し、しかも彼らが活躍して勝敗が決まるということまで起こっている。
サッカーでも欧州リーグに多くの選手が活躍している。中田英寿がイタリヤで活躍。しかもインタビューでは流ちょうなイタリア語で応答する。一躍現地で人気者になった。
漫画「キャプテン翼」を世界のスタープレーヤーが子供の時から愛読しているという。
驚いたことに海外でプレーする日本人サッカー選手は165人に上っており、英国の名門チームではスタメンで4人もの日本人プレーヤーが登場し、かれらの活躍で勝利を収めている。なでしこジャパンの世界選手権優勝の2011年は丁度パリに居を構えていたのでよく記憶している。あの年、三陸沖大地震の後でどれほど国民が励まされたことか。
ラグビーもこの20年間でレベルが格段に上がった。本来このスポーツのメンバーはあまり国滅ということを意識していないがそれにしても「日本風」を標榜して海外の強豪に伍して活躍するようになった。
バレーボールもかつての世界トップの地位にあったがその後各国の追い上げで苦戦していた。ここにきて海外でプレーする選手が増え、日本チームの多様性が進んだ。バスケットで男女とも世界で戦えるようになり、しかもオリンピックでメダルを取るなどは一昔前には想像もつかないことだ。
ボールゲームの監督は海外から招聘されることが多く、どのスポーツも監督は「日本の特徴をいかす」ことが勝利につながることを証明した。グローバルスタンダードではないのだ。
個人競技のゴルフでは松山英樹が念願のマスターズに優勝するという快挙があった。
こうしてみてくるとこの30年で変化したことあるいは「得たもの」が多いことに驚く。
「音楽」「映画」も多くのコンクール、各地の映画祭での受賞があいついている。それが当たり前のような感覚になった。
しかし、最もうれしいのは「日本語」を学びたいという若者が世界各地に確実に増えていることだ。アニメ、ゲームがきっかけとなって日本語を習い「日本文化」に興味を持ってくれている。アジアから欧米に行くのは稼ぎに行くということが主でその為の現地語習得であるが、彼らの来日の目的は「文化」に浸る、体験することでそのために日本語を学ぶとは自ずと違うものだ。

葉々斎の呟き(9月16日)『失われた30年で得たもの』

ここまで「失われた30年」で何を失ったか縷々調べて来た。失ったものばかりだろうか?この30年間で「得た」と体感した「もの」について記録しておくことにする。

「もの」というとすぐに「ものづくり」として「工業製品」を取り上げて国民総生産の結果を注目している。国の政策も「ものづくり」とはほぼ「工業製品」を指しているようだ。

しかし、本来「もの」とは「たべもの」「きもの」「たてもの」が基本だ。

「たべもの」のこの30年間での変化は、先述したように「ラーメン」が世界的なブームになっているが、それ以前に「寿司」が世界の主要都市で食べられるようになっていた。それに目を付けた、中華料理店、韓国料理店もあたかも自国の料理のようにメニューにくわえているばかりではなく、店の名前も日本風に変えてしまっている。海外で日本食レストランのつもりで入って、韓国人、中国人の店であったことはだれしも経験したことだ。パリでは1000軒ほどの店が寿司をメニューにくわえているが9割は中国、韓国の経営だ。各地で寿司、ラーメンのバリエーションが出現している。

一方、国内のレストランのレベルはこの30年間で確実に向上した。フランスの伝統的レストラン情報誌「ミシュラン」が日本の都市の情報を収集し、出版してその評価を表す星の数は東京が200個、パリ127個と本場を圧倒しているだけではなく、3位に京都の97、4位に王佐紀の93と続き、東京は16年間にわたり第1位を占め続けている。「グルメ都市」を巡ることが、日本観光の目的の一つになった。

日本の伝統料理「和食」が世界遺産に指定された。そしてその独特の「旨味」はやっと海外の料理人の舌にも理解された各国のシェフが競って「和食」の手法を取り入れている。

「きもの」についても、海外からの評価が高まった。特に日本発ファッションについてあのスティーブ・ジョブスが黒のタートルネックセーターにジーンズを定番として他のものを着ないというストイックなスタイルを続けていた。ブルース、ロック、ギターの名手エリック・クランプトンは日本製ストリート・ファッションを気に入り舞台衣装に採用した。ドイツ人気映画監督、最近の「Perfect Days」で一躍日本でも人気沸騰のヴェム・ヴェンダースは日本人デザイナー山本耀司の黒を基調としたものを気に入り、更に山本のファッションショーにモデルとして登場し、ショーの演出から詩の朗読まで行っているほどの熱の入れようだ。世界中の大都市のメインストリートには海外ブランドに並んで「MUJI」「UNIQLO」の店舗がにぎわっている。パリでは日本人デザイナーの店が、高級店舗の並ぶ一等地にオープンしている。皆、この30年の間に起きた現象だ。

「たてもの」についてはブリッカー賞というノーベル賞に匹敵する世界的な栄誉に日本人建築家が9人受賞しており、これが国別で最多の記録だ。

それにも増してパリの伝統ある「ルーブル別館」、古いデパート「サマリテーヌ」改装を妹島和代が、同じくしないの「ブルーゼデコメルス」を安藤忠雄が設計改装するなど市民の評判となっている。二人ともブリッカー賞の受賞者だ。恐らくあのパリに今後100年近くは存続するような名建築と言える。

「もの」ばかりではない。

「ノーベル賞」というと、このところ毎年日本人の受賞が当たり前のようになった。これは湯川秀樹博士の1949年の初受賞につづき現在28名の受賞者がいるが2000年から現在までの20年足らずの間に実に22人が集中的に受賞しているのだ。

葉々斎の呟き(8月22日)『失われた30年で得たもの』

日本の90年代以降の「失われた30年」とは「アメリカ文明(American way)」との戦いで、この30年間、アメリカに歩調を合わせざるを得なかった、そしてそれに気が付かない日本社会の姿が見える。「文明(手間を省く精神)と「文化(ひと手間かける精神)との戦いだったのだ。

サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」を1996年に著したが、「文明」同士の衝突はお互いに「普遍性」を主張すれば必然的に衝突が起こる。しかしその後の世界情勢を見れば各地のスン層は普遍性を希求するグローバル化という「文明」と、継続性を希求する「文化」との責めぎあいであることは明らかだ。

「失われた30年」とはその戦いに苦戦している時間帯であったのだ。失ったものは「文化」という継承されたきたものへの敬意、あるいはすくなくとも「気づき」の欠如ではなかったのか。今のところグローバルな決済通貨であるドルというゴミひものような巻き尺(”もの”さし)で日本という国が保持する「精神」が生み出す「価値」を測定することは正確とは言えないことを日本人、特にマスコミ、評論家、経済学者は認識してなくてはならない。同時にわれわれ国民も彼らが発するコロコロ変わる説(ものさし)を妄信することは愚かしいことだと気付くべきだ。

葉々斎の呟き(8月20日)『失われた30年で得たもの』

「ジャパンアズナンバーワン」の評判で日本人は満足してしまったのか、この海外からの日本評価がその「文化」が経済的な成功までも導いたのではないかという解釈がされていたことを忘れてしまっていたようだ。

確かに、マッカーサーの言うように「12歳の少年」であったかもしれないが、戦前の日本人は十分に伝統を伝えられ、自分で意識せずとも身についた”もの”とは何だったのか?

デミングの統計学に則った品質管理、さらに経営手法は「文明」であった。「文明」とは普遍性を求めて、画一化を図る運動だ。それは恰も米国産業のスタンダード(普遍性)に則り、米国産の商品を世界各地の工場を下請けとして使い製造させ、利益を吸い上げる仕組みの筈だった。先の大戦はアングロサクソン民族を中心とした欧州旧世界の「文明」同士の戦いであった。マッカーサーは敵国ドイツを自分と同じ45歳の壮年の人間と認識していた。一方日本は早く欧州「文明」圏内に加わろうとして努力を重ねた。当時最大の文明国の英国との同盟により第一次世界大戦で「漁夫の利」を得た。文明国になったとアジア地区に日本の「文明」を敷衍すべく局地の争いごとを世界にまで広げて、いらぬ戦いにまで巻き込まれた。「文化」では満足せずに「文明」の戦いに参加したつもりであったのかも知れない。第二次世界大戦に臨む覚悟のように「八紘一宇」(広く天下を一家とみなす)と唱えたが、これは「普遍性」を希求する「文明」志向の言葉だ。日本は普遍性を求める国ではない。「日本文明」とは言わず、「日本文化」の国だ。日本品質は「日本文化」から生まれたのだ。それは、製品を買上てくれる消費者に少しでも喜んでもらおうとして「ひと手間」かける精神構造だ。これに対し、普遍的グローバルスタンダードで「ものづくり」を行うと普遍性同士の戦い(文明間競争)となり、結局コスト競争となる。それは「手間を省く」という精神だ。生産性、効率という考えはコスト・パフォーマンス、最近ではタイム・パフォーマンスとまで時間、コスト、手間を省くということがグローバルスタンダードになってしまった。

米軍人が重大な犯罪を犯した場合の身柄引き渡し条項と、重大犯罪に対する韓国側の裁判権拡大、韓国の法執行機関による捜査と起訴手続きの円滑化を図るための措置が講じられた。韓国の裁判所による刑の執行について、米軍がより協力的な姿勢を

葉々斎の呟き(8月19日)『失われた30年で得たもの』

elegant woman wearing a construction helmet and writing in a notepad
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【文明村文化】

数字ではないところで明らかに”失われた物”がある。

それは近年多発している大手企業の品質問題である。神戸製鋼所グループの品質データ改竄から始まって三菱自動車グループ、日野自動車、スズキ、タカタ(エアバッグ)SUBARU、デンソー、最近の佐藤製薬などがかつて80年代に日本の品質ということで世界中から賞賛をえていた企業の名がメディアでほうじられるたびに驚きよりも悲しみを感じた。一体どうしたのか?

アメリカの復活は、GAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)という新しい産業形態を生んだ。自分では極力”もの(ハードウェア)づくり”を行わず、l他社、外国で米国標準により製造したものを世界中に繰り広げられたネットワークを通じて販売する。あるいはそのネットワーク上で飛び交う情報に広告を添付してその掲載料で事業展開をするという新ビジネスモデルだ。このまったく新しい産業形態を世界展開させることによってアメリカはいまだにGDP世界一位の地位を占めていることができている。人口の増加のみならず新しい「金儲け(MONETIZATION)」方法を弛まず開発している。あのヤングレポート、バルミサーノレポートの結果ともいえる。

ここで、当時経験したことを記しておきたい。

ジョン・ヤングが勤め先を訪ねてきてヒューレット・パッカード社と合弁会社を設立した。合弁交渉の窓口を担当したため、ジョン・ヤング来社時には通訳として同席した。そこで彼はHP社が元々測定器の会社から発し、コンピューター業界迄進出した経緯を紹介したが、その精神は「わが社はものを計る技術の会社である。計ることが出来れば物は作れる」という素朴な原則であるというのだ。

来日以前に同社は「コンピューターに使用する半導体を米国製はもとより、欧州、日本の製造会社より購入し、品質検査を行ったが日本製は欧米の各社よりも10倍優れていた。」という欧米にとっては衝撃的なデータを発表していた。彼の来日の目的の一つは日本の製造業の現場を訪ねてその高品質は何処から来るのかを自分自身の眼で見てきたいというものであった。

HP社の日本製品お高品質発表に衝撃を受けた米国産業界に対し早速NBCテレビで「Japan can, why we can’t (日本に出来て何故我々に出来ないのか?)」という番組が流された。製品品質は使ってみて、壊れないということを実感して初めて理解できるものであるが、HP社という世界有数の「測定機器」メーカーの実測、実感を公開したことにより全米の未だ日本製品を使用したことのないユーザーにまで知れ渡ることになったのだった。

これは1990年代から始まったとされる「失われた30年」の前に日本の製造業が実現していた実力だった。HP社のジョン・ヤングのみならず、GE社のジャック・ウェルチ、クライスラー社のリーアイアコッカ、インテル社のアンディ・グレーブ等、名だたる名経営者と言われた事業家が日本に学んだ。

そして彼らは「TQC(Total Quality Control)」という日本の生産現場の手法にその秘密を見つけた。

この手法とはアメリカで開発され「SQC(Statistic Quality Control)」の日本版であることに気が付いた。Statistic(統計)手法ではなくTotal (全体、会社)という日本風の解釈。これが日本の強みであった。実はこの経営手法のオリジナルはアメリカのW・エドワーズ・デミング博士の提唱する品質管理を基盤に据えたマネジメントシステムの忠実な習得の結果であった。敗戦直後の占領下に来日し、マッカーサーの占領政策の一環として「財閥解体」政策と並行し「日本の工業の再建」のコンサルタントとして主要な日本企業にデミング博士は派遣されたのだ。最初に派遣されたのが日本電信電話公社に通信機器を納入していた企業(日本電気、沖電気など)であった。

マッカーサーが後の米国公聴会で「日本はいまだ12歳(Like a boy of twelve)」と証言し日本国内では「馬鹿にされた」との解釈が定着しているが、「12歳の少年のような日本は、確信を持って我々に戦いを挑んできた同じ45歳の壮年のドイツとは違って世間知らずで、今回の戦争に巻き込まれた」と続けて証言していたのだ。そして指摘通りにその少年は、訓練、教育を受けて20年を経た青年期の日本は先生である米国産業に追いつき、工業分野では追い越したように見えるまで成長した。

統計学者デミング博士のとなえるSQCからTQCへの日本風の解釈の拡大は「品質は、品質管理部門のみが担うものではなく、係る人間全員が”作りこむ”ものだ」という考えに基づいたもので、終いには製造部門のみならず、この製品を扱う会社全体が品質を作り出すのだという会社品質管理(CWQC=Companywide Quality Control)にまで発展した。それが70年代から80年代の”Japan as No.1”(1979年エズラ・ホーゲル)とまで世界中に喧伝された。

特に、半導体の評価は高く、欧米の企業からはその秘訣は「儒教にある」「稲作の影響」など知られざる「日本古来の文化」から来るのではないかと、素人の一般人ばかりではなく専門家までもが信じていたほどだった。

葉々斎の呟き(8月17日)『失われた30年で得たもの』

tax documents on black table
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【法人税】

日本:2015、16、21年=34.62→29.74→23.20%と低減した。

米国:2017年にトランプ減税=27.98→21%

ドイツ:29.93%

各国内企業の国際競争に勝ち抜くため、競って低減していった傾向が見える。グローバル化とは国を挙げての世界的なビジネス競争という意味だったのだ。

【所得税】の世界的傾向は激変している。日米英独仏の内、米国を除く四ヵ国の傾向は今日ほぼ(徴収最高金額の差はあるものの)約45%、それぞれ各地の地方税に相当するものを加えて55%前後である。

この傾向が顕著になるのは1980年代からだ。それ以前の最高税率は日(75%)米(70%)英(83%)独(56%)仏(65%)であった。この40年間(失われた30年を含む)にそれぞれ激減と言っていい変化だ。この切っ掛けを作ったのは米国レーガン減税を含む”レーガノミクス”と呼ばれた新自由主義経済の結果だと気がつく。

その後の米国はレーガン時代の最後1988年には28%、ブッシュ(91年、31%)クリントン(01年、39.6%)、と変化し現在この五ヵ国では最低の37%となっている。

【消費税】

良く「社会保証」が完備した国々という北欧(ノルウェー、スウェーデン、デンマーク)の消費税はほぼ25%前後。日本で消費税を5→8→10%と小刻みにあげるときには大反対の声があがった。同時に社会保障、教育費無料化など北欧を手本とせよとの要求が強い。

英独仏の西欧はほぼ20%前後。アメリカは消費税という名称ではなく「Exercise Tax」として消費する際に課税する。各州異なる税率だがほぼ5~7%。

特に低率なのは台湾の5%、カナダの7%。

各国を旅すると物価の違いは直接的に体感できる。1985年プラザ合意前にはドルに対し250円前後で推移していたが駐在員家族たちは、実生活ではドルは100円と思って物を買っていたと話していた。実際、プラザ合意後1990年前後には本当に100円前後になった。実生活での体感が物価をリードしていると感じたものだ。「経済原論」の授業の最初に出てきたアダムスミスのいう「神のみえざる手」とはこのことだと思ったものだ。市場原理に任せておけば落ち着くところに落ち着くらしい。

【ヤングレポート】

レーガノミクスの産業競争力向上に関する中心となったのあ「ヤングレポート」(1985年)による提言を受入れた施策であったことは間違いない。ヒューレット・パッカード社会長であったジョン・ヤングはベトナム戦争(1955~75年)で疲弊した米国の財政(双子の赤字)、産業立て直しを、ビジネス特許とスタートアップ企業支援、さらには新規事業に対する投資奨励を柱とした諸作を政府に促した。この米国産業力向上委員会はその後、IBM会長であったパルミサーノレポートとして継承され現在に至っている。こうしてみると日本の「失われた30年」米国にとって「復活の30年」であったと言えるのではないか。それはヤングレポートの提言を入れた産業界と主要資本主義国の金融界を説得したプラザ合意がこの復活の柱になっていたことが判る。

経済指標を目盛りにした日本の”失われた30年”で何が失われたのかを理解するには米国内通貨である(伸び縮みする)ドル換算で行なうと表面上の数字しか伝わらない感じがして失われたものがはっきりしない。

葉々斎の呟き(5月6日)『失われた30年で得たもの』

【ラーメン】
今や世界中で人気の日本発祥ラーメンで比較したらどうだろうか?実際、出張の度に日本食が恋しくなり、サンフランシスコ、パリ、ロンドン等行く先々で食べて廻った。失われた30年の開始した1990年以前には確かに日本食を出すレストランはあったがラーメン専門店は少なかった。それにとても日本の味とはかけ離れ食べられるものではなかった。日本政府が後押しした“クールジャパン”プロジェクトで九州発の一風堂が世界各地に進出するに及んで一挙にその味は進歩し、日本の味と遜色がないばかりか、トッピング、スープの選択、麺の太さ、固さまで選択ができるまでになった。サンフランシスコで入った店では試しに選択肢を数えたところ36種類にも上った。今や、ラーメンはグローバルフードとなった。
ところがその価格に驚いた。一夫道の日本価格約800円から1,000円のものが大体2500円から、3000円していた。アメリカの場合、更にチップ(18%)がレシートに自動的に印刷されている。元来提供されたサービスに感謝して顧客の自由意志でチップ(心付け)を払うものであったはずだが・・・、と支払う段になり割り切れない気分になる。ビッグマックと違い、ラーメンはバリエーションで勝負するようなところがあるが、あまりにも高く、旅行中に我慢して一度だけ愉しみ世界経済の一端を舌で感じることにしている。
アメリカで入った店に求人広告が張り出されていた。そこの時給約3300円と$円換算していると、現地の友人から今や平均時給は$33.44(約4700円)だと言われた。この時給の差とラーメン一杯の価格差をどのように考えるべきか。2023年に日本国内の最低賃金が1000円を超えたとニュースで見た記憶があり、これだと日本の一風堂のラーメン一杯は食べられそうだ。米国一風堂の募集していた時給(3300円)でその店のラーメン一杯(2500~3000円)は食べられる計算だから、こと一風堂ラーメンに限っては日米の購買力はほぼ同じ程度と考えてもよさそうだ。
アメリカの一人当たりGDPは約76000ドル(約1140万円)に対し日本は34,000どる(約510万円)。確かにビッグマック指数もラーメンもほぼアメリカと比較すると日本の価格は一人当たりGDPと同様に約二分の一ということになる。絶対価格と体感価格という面ではあまり差というものはなさそうだ。

ここで、ふと税金のことが気になった。税金については、次回で紹介する。

葉々斎の呟き(5月1日)

【Big Mac Index】
これに気がついた経済学者たちは従来の”購買力平価説”で各国の通貨をある特定の商品、サービスの化国内売価を換算してそれぞれの国の購買力を比較するということを試みている。英国経済誌「エコノミスト」が1986年より毎年二回マクドナルド・ハンバーガーの一つの商品の各国店頭価格をベースに為替レートを”体感”として評価できて興味深い。経済学界にも”ビックマック指標(Big Mac Index)”と認知され、経済統計的なGDPと並行して参照されている。
2024年1月に発表になった最新情報ではビッグマックが世界で最も高値で販売されている国はスイスで、値段は$8.17(2月レートでは約1,214円)、米国では$5.69(約845円)ユーロ圏では$5.87(約872円)。日本では”失われた30年”の真っ只中2013年に何と100円でビックマックが販売されたことがあった。これは日本マックで使用する肉に混入物があり、市場からの拒否藩王を沈静化する一時的な処置である。日本のビッグマックの価格推移は、2000年(294円)、2005(250)、2010(320)、2015(350)、2020(390)、2023(450)そして2024年現在430円となった。

葉々斎の呟き(4月30日)『失われた30年で得たもの』

GDP推移】(19802024年、失われた30年を含む、10年毎の値)1980255.7兆円、1990年:462.82000535.42010505.52020539.22023588.5一人当たりGDP推移 1980:215.0万円、1990:374.9、2000:422.1、2010:396.2、2020:428.5、2023:477.2【円ドル相場の推移】(大戦後日本経済崩壊後の対ドル価値、ドル=360円(円=360度) 戦後の1ドル=360円という固定相場により、米国以外の製品が戦後の米国という巨大な商品者市場に格安品としてなだれこみ、割高感のある米国製品は国内以外で競争力を失っていた。慌てた米国はスミソニアン・レートという新しいルールを発表し、1ドル=308円とした。それでも外国品の流れ込みは止まらず輸入超過で、貿易赤字となった。これは為替という”尺度、物差し“が実態とかけ離れているのが原因だと1973年に完全変動相場制に移行した。これで、モノの価値は国内外でフェアーに消費者に伝わり国産品が売れるものと考えたが事態は変わらなかった。貿易赤字のみならず、レーガノミクスの目玉政策で大型減税、社会保障費の削減と同時に国防費の増大で財政赤字となっていた。盛んに「双子の赤字」と称された。しかし、レーガンの標榜する新自由主義は各国に影響を及ぼし、後述するように「国家を運営するコスト」は世界的に「小さな政府」を美座市、各国の税率は所得税、法人税ともに競うように低減した。それはレーガンがというよりも米国が世界の自由主義陣営の守護神の立場を表明、維持して自由競争が公正に行なわれていたからだった。その為、これを維持するために自由主義、資本主義陣営はG5(米英仏独日)を組織し、ニューヨークのプラザホテルで蔵相会議を行ない{プラザ合意}を表明。それはドルの切り下げ、即ちドルの価値低落を認め、米国を救済する形になった。レーガン大統領の強力なリーダーシップで東西冷戦が解決したように喧伝されているが実際このように見てくると国防費増大に起因する「双子の赤字」は自由主義を標榜するG5諸国が支えていたから実現できたことは明らかだ。ドルという世界決済通貨体制を維持するためにアメリカの通貨であるドルが全ての基準(ものさし)になることを資本主義国は認めた。但しその基準である「ものさし=ドル」は伸び縮みするものであることを理解しなくてはならなかった。こうなるとGDPという指標が何を表し、それが各国の個人の生活の何を反映しているのかという疑問が湧いてくる。この議論は経済学の問題で個人の”感じる”ものとは乖離がある。

葉々斎の呟き(4月28日)『失われた30年で得たもの』

なぜ、「失われた30年」と呼ぶのか?何が失われたのか?確かに国民総生産は国力を測定する一つの指標ではある。そこで測定された値が第二位になり三位そして四位になったとはいえ世界のトップクラスを維持しているではないか。国内総生産はその国の人口、労働力が生産した総量であるから人口が大きいほど生産は上がるというデータになり個人の“得たもの”幸福感とは必ずしもつながらない。「失ったものは幸福感」なのか?不幸になったのか?空腹になったのか?欲しいものが変えなくなったのか?行きたいところ(移動の自由、旅行の愉しみ)がなくなったのか?
まず、「失われた物」の実態を図る尺度を一瞥してみる。
「国民総数を人口推移で考える」と、明治6年(1974)の最初の国政調査では3340万人、
夏目漱石が対象3年(1914)に「私の個人主義」という学習院で行なった講演の中で「5千万人の国民の一人として」と述べている。そして明治百年(1968)の前年昭和43年(1967)にいよいよ1億人を突破。明治以来百年かけて日本人は3倍になった。2008年(平成20年)には1億2800万人(明治以来約4倍)でピークを迎えその後減少傾向に傾き、2023年1億2400万人となった。一部の予想では2048年に9913万人、2060年には8674万人といわれている。
2023年の世界人口のランクはインド(14億2800万人)、中国(14億2500万人)そして第3位はアメリカで3億4千万人、アメリカはなお増加傾向にある。
因みに「失われた30年」と呼ばれる期間のアメリカの人口の推移は1980年(2億2762万)、1990(2億5千万)、2000(2億8230万)、2010(3億974万)、2020(3億3126万)、2023(3億3514万)と増加の一途。日本の失われた30年間にアメリカはほぼ日本の人口に匹敵する増加があった。即ちアメリカのGDPは失われた30年間と日本が悲観している間に、GDP第二位だった日本を加えたような総生産を可能にする人口増加をしていたことになる。

葉々斎の呟き(4月16日)

失われた30年で得たもの
2024年に我が国のGDPはドイツに抜かれ世界第四位となった。
思い返せば日本は1967年そのドイツを抜いてアメリカに次いで第二位になった。そして2009年に中国に抜かれ第三位になるまで40年以上その地位に留まっていた。国連加盟国数が今や193ヵ国に垂んとする中での第二位から第四位まで推移である。世界の大多数の国に比べて第二次世界大戦に敗北したと言いながらその後の80年近く世界の五指に入る国威を維持してきたとはつくづく産まれた国が良かったと実感している。
ところが、やがて次はインド、インドネシア、さらにはナイジェリアなどの国々に国民総生産で抜き去られ我が国は衰亡の一途をたどるかの如き論説のメディア、評論家、それを信じて右往左往する人士が後を絶たない。
1969年(昭和44年)に一サラリーマンとして電気・通信業界に職を得て,2010年まで同じ会社で勤め上げた人物として丁度上記の機関を最前線で波にもまれていた。
この間、悲観論者は1990年代から現在までを「失われた30年」と称し、産業界の怠慢、政界の間違った政策、あるいは無策と避難を集中している。最前線にいた人間としてなにやら自分が非難を受けている様な気分になるのはわれ一人ならず。当時の「モーレツ社員」と揶揄され、今やリタイヤしている仲間が集まると、必ずこの話題になる。
そして、今や皆喜寿を過ぎてこの「失われた30年」の自分なりの解釈を残しておくことが「時代の生き証人」としての責務であろうと話し合っている。

中国周遊記3(4月11日)

【四川省成都から康定市へ】
今ではアクセス道路が整備され、風光明媚な観光地となった康定市。康定市はチベット語で「ダルツェンド」と呼ばれる山あいの町です。狭い谷間に開けたこの町は、標高2600メートル。東チベット観光の玄関口です。始めて訪問した2000年当時空路は整備されておらず、未舗装の道路をランドクルーザーのキャラバンを仕立て、まるで探検隊仕様での旅行でした。移動時の極めつけは、ランクルを艀に乗せての渡河。艀と言っても喫水が低いので、瀬に差し掛かると、波しぶきが船の甲板を洗うこともある。艀と言うより筏と称した方がイメージに近い。

急流の中、白波が荒々しく立ち上がり、船はそのうねりに揺れる。対岸の緑豊かな山々は誘惑するが、河の力は容赦なく船を翻弄する。不安と興奮が入り混じり、心臓は高鳴り、対岸への到達を願った。落ちたら助かる自信はない。

渡河後も悪路の連続で、ランクルの天井に頭をぶつけた回数は数知れず。激しい横揺れはまるで自然のマッサージャー。

成都を出て2時間、稚安への向かう道路の半分は、収穫期を迎えた籾干しに道路の半分が占拠され、車は一車線をのろのろ運転。中国は広大、農地も広大、籾干しは何処までも続く。いつになったら、渋滞に別れを告げられる?

中国周遊記2(4月10日

【チベットの食】
異国訪問の楽しみは、食事である。ポタラ宮の全面に開いた門前町がラサ一番の繁華街かと思われる。大衆食堂、屋台、土産物屋などが並ぶ。道ばたのそこかしこでチベットのおじ・おばが小型パラボラアンテナの前で座り込んでいるのが気になる。アンテナはほぼ正確に太陽に向けられているため、反射する光が眩しい。よく観察すると太陽熱は傘の内側の焦点に集約するため、そこに薬缶や鍋を仕組んでおくと調理が出来るという道具のようである。生活の知恵が素晴らしい。もっとも、1日25時間雨が降ると言われる屋久島では役に立たない代物か?

その市中の食堂で食べたのは、伝統的なチベット料理では無く、蘭州ラーメンだった。蘭州ラーメンは、差し詰め中国版博多ラーメンか札幌ラーメンで、全国区のラーメンである。しかし、沸点が低いせいか、間延びしたような麺の食感だった。標高の高いところで麺類を食べるのはお薦めしない。
ラサの食事で度肝を抜かれた事が2回あった。地元料理店で、魚のシチューかと思って食していたのが、何とヤク(毛牛)の目玉入り煮込みだった。目玉の食感は、魚のそれと気がつかないもので、かみしめていると真ん中に白濁したこりこりとした食感の眼核がある。その食感も魚のものと同じである。

レストランのサービスなのか、ヤクの目玉が10個は煮込まれて、スープの中から淀んだ眼でこちらを見ている。眼球を調理すると魚もほ乳類も同じ味になることを発見。

次いで、ヤクの血を腸詰めにした「血のソーセージ」が出たが、血入りのソーセージは、中央アジア、ヨーロッパ、中国でも一般的に食されているので驚くものでは無い。血は蛋白質の一種だから、挽肉と混ぜてしまえば色黒のソーセージに過ぎない。但し、食感はどちらかと言うとポソッとしていて、個人的には血入りでは無い方が好きだ。
それよりも驚いたのは、中国の辺境地、内陸中の内陸であるラサで伊勢エビを始めとして、鮪や海産魚の刺身が宴会のメーンディッシュとして出てきたことである。しかも、中国南部から運ばれてきたスイカの食後デザート付きでだ。中国の輸送能力を侮っていた。25年前の話です。

チベットでは、宴会の度に地元が誇る「チベットビール」を勧められた。ラガービールなのだが透明度が高く、全国ブランドの青島ビールに近い、ホップを押さえたすきっとした飲み口である。辺境のビールで有りながら、押しつけがましいところの無い洗練されたビールです。

老いは確実にやってくる(4月8日)

50年来の友人がアルツハイマー病になった。
脳梗塞で倒れて入院後に急速に認知症の症状が発現した。記憶障害など認知症の老人を扱ったテレビドラマで「嫁が食事を作ってくれない」「家族が自分のお金を盗んだ」等々、被害妄想の症状がステレオタイプとして画かれている。まさにドラマの如く、自分の会社が乗っ取りにあっていると妄想を述べている。5年以上税務申告をせずにほったらかしにしておいた彼の会社には含み資産は一切無く、有るのは累積延滞税と追徴税くらいだ。もう一つ、これと言った実績も無いので「看板」も価値を持たない。彼には申し訳ないが、余程の変人で無い限り、このような会社を乗っ取りたいと思わない。よく考えると判断できるはずなのに、彼の妄想が悲しい。

認知症になると記憶障害や判断力低下などが起こり、その結果として幻覚や妄想、暴言などの症状があらわれることがあるようだ。妄想や暴言を向けられる家族や友人もたまったものでは無い。病気と認識していてもだ。

アルツハイマー病は、如何に世界的な活躍をしていようと、老化に伴い罹ることがあるようた。サッチャー首相、レーガン大統領、南田洋子(女優)諸氏のアルツハイマー発症は驚きでしかなかった。

認知症は、その影響が患者だけでなく家族や友人にも及ぶ。妄想や暴言によって生じる痛みは深い。また、認知症は立場や功績を問わず、誰にでも訪れうるものである。かつての偉人たちもその一例だ。老いという現実は避けられないものだが、その過程で私たちは理解と寛容を持ち合わせることが重要なんだろう。

中国周遊記

【チベット周遊】
かれこれ25年ほど前に、チベットを訪れる機会がありました。チベットは、中国の中でも最も辺境に位置する地域の一つであると言えるでしょう。私にとってチベットが中国で訪問した何番目の都市になるのか、カウントできません。中国というと、直ぐさまチベットを連想してしまうには訳があります。

チベットでは人生で初めて「意識的に呼吸を続ける」というある意味恐怖の経験をしました。眠りに落ちると呼吸が止まり、苦しくて目が覚める。深呼吸をして呼吸を整えた後、意識的に「吸って」「吐いて」のリズムを繰り返す。再度寝落ちすると呼吸が停止するため、慌てて深呼吸を行なう。朝までこれを続けるのかと思い、ぞっとしたものです。そもそも、極度の乾燥地帯のチベットでルーチンとしてシャワーに入り、身体を冷やした結果風邪を引いた。自業自得以外の何でもありません。地元の人からは、この気候に慣れていない外国人は風呂に入らない方が良いと忠告されていたにもかかわらず、私はその忠告を無視してしまいました。実際、私のカウンターパートである客先の女性でも、10日に1回ほどしか身体を洗うことは無いとのこと。富士山の山頂と同じ標高で風邪を引くことは自殺行為に等しいと学んだラサの思い出。

【ラサ空港到着】
実は、恐怖の窒息事件は私にとって2度目のチベット訪問時でのものでした。気の緩みが行けなかったのでしょう。
初めての訪問ではラサ空港に降り立つまで高山病に罹るのでは無いかと気が気ではありませんでした。何しろ、これまで到達したことのある最高高度がコロンビアのボゴタにある山頂の教会の3000メートルだからです。その時は、麓のボゴタ市内から山道を2~3時間掛けてゆっくり登ったため、高度順応ができました。しかし、今回は飛行機で一気に富士山の山頂の高さへ降り立つのです。降りた瞬間に高山病に罹ると、いきなり入院か、出発地の四川へ直ぐさまUターンの途しかありません。会社の先輩が、南米パラグアイのラパス空港に降り立った直後に高山病に罹り、偶然居合わせた医療チームのヘリで海抜の低い都市へ搬送されたことで助かったと聞いていたことが脳裏を離れませんでした。

さて、到着したラサ空港は、こじんまりした空港ですが下界の四川省とは違って排ガス等の汚染臭が含まれておらず、まるでオゾン浴をしているような清涼感さえも感じさせてくれます。標高は3600メートルで森林限界を超えているにも関わらず、空港から市内までの約100キロの道程はまるで軽井沢のサイクリング道の様で、渓流のせせらぎ、緑の優しい林を抜けて行きます(現在は、近代的なアクセス道路が整備されたようだ)。

エジプトの国民食コシャリを食す

エジプトは5000年の歴史を誇ります。歴史的な遺産や壮大なピラミッドだけでなく、独自の食文化もまた、訪れる者を魅了します。エジプト料理の中で国民食とも言うべき料理がコシャリです。コシャリはストリートフードの王者であり、日本で言えば差詰めB級グルメのチャンピョンです。カイロの旧市街や市場、繁華街、映画館の近くなど何処でも見かけることができますが、人気店とそれ以外の店ではやはり客の入りが大きく異なります。

コシャリは、見た目にも美しい層になった料理で、パスタ、米、レンズ豆、トマトソース、そして香辛料が絶妙に組み合わさっています。しかし、一方では炭水化物の塊で、大阪人が焼きそばをおかずにご飯を食べるに匹敵します。簡単に言うと、米とパスタでできたピラフです。

コシャリの魅力はその複雑な味わいにあります。パスタと米が相まり、レンズ豆のコクが加わり、トマトソースが全体をまろやかにまとめ上げます。香辛料はそれに独自のエッセンスを加え、一口食べるたびに新たな発見が待っています。この料理は、エジプトの土地の恵みを最大限に活かし、歴史と風土を一皿に詰め込んでいると言えるでしょう。しかし、外国人の舌には人気店とそれ以外の味わいを大きく優劣を付けられません。

エジプトでは、ローカルフードよりも外国からのジャンクフード、ピザやハンバーグ等のレストランの方が優勢で、ローカルフードは片隅に追いやられている感があります。だけどエジプトを訪れた際には、コシャリはぜひ味わってほしい料理の一つです。その美味しさはもちろんのこと、エジプトの人々が大切にしている伝統や文化を感じることができるでしょう。エジプトへ行けない人は、錦糸町の南口3分にコシャリ専門店で味わってください。

イスラエルよ、戦争を即時中止してくれ。

ガザでのパレスチナ人死亡者が2万人を越えたとの報道があった。破壊された建物で埋もれた行方不明者の人数も5千人を超えるとの報道もある。メタニヤフは、イスラエルはどれだけパレスチナ一般市民を犠牲にすれば攻撃を中止するのだろうか。国連の無力さも暗澹たる気持ちになる。国連が努力していないのでは無い。常任理事国の拒否権に対し、無力なのだ。

国連安全保障理事会理事国はパレスチナへ更なる支援を行ない、米国の拒否権行使を回避しようと、ガザにおけるイスラエルとハマスの戦争に関する決議案をめぐる激しい交渉に関与しているのは事実のようだ。この審議途中の決議案は、イスラエルとハマスがガザ地区への援助を認め、提供された人道支援を国連が監視するよう要求するものだという。新決議の当初の草案では「ガザ地区への人道支援の妨げのないアクセスを可能にするための敵対行為の緊急かつ永続的な停止」を求めていた。しかし、アメリカの抵抗に遭い「敵対行為の緊急停止」という文言で骨抜きにされた。

日本政府の対ミャンマー政策は軍政の後押しに他ならない?

去る1週間前の今月1日、岸田文男内閣総理大臣、上川外務大臣、鈴木財務大臣および斉藤国土交通大臣宛に「ミャンマー軍を利するODAと公的資金供与事業(借款事業)の停止を日本政府に求める」旨の要請書が提出された。要請は、武器取引反対ネットワークを始めとする国内外の6つの呼びかけ団体と、85の賛同団体である。

要請の趣旨は、日本政府の対ミャンマー支援は同国の軍事支配体制を暗黙に支持しているに他ならないので、早急に支援のあり方を見直すべきというものである。

日本政府からの2020年の累積借款残高は27.6億ドルで、これは同国名目GDPの約3.5%に達する。3.5%という比率は一般的に健全の範疇であるが、ミャンマーが軍政になった21年以降経済成長は低空飛行であり、国民生活向上のための支援というよりも軍政を後押しするための支援で現在の低空飛行経済を再建することは難しいと考えられる。何故なら、円借款の契約当事者が軍政府の法人だからである。

【続く】

正義とは何だ?11月19日

戦争の敗者に正義は無い。開戦前の状況が如何様であっても、戦勝国に国際法上の非があったとしても、また戦闘の過程で非人道的な殺戮を行ったとしても、敗戦国に正当性の主張は認められない。このことは歴史的に見て事実だ。

イスラエル軍がガザ北部最大の小児病院に大規模な攻撃を仕掛け、その結果患者、病院職員、避難民の大量殺戮が起こっている。イスラエル軍はこの病院がハマスの隠れ蓑となっており、その地下にはハマス軍の司令部を始めとした様々な施設が建設されているとしている。病院を完全に手中に収めた(イスラエル軍の立場では、”陥落”)イスラエル軍は、自らの病院攻撃の正当性を示すため、病院内で発見されたとするハマス軍の武器写真を公開した。イスラエル軍が他所で集めた武器を病院で発見したハマス軍のものとして公開していることもあり得る。

最疑念はイスラエル軍が病院攻撃の根拠とした病院地下に建設されているハマス軍の地下アジトが未だに公開されていないことである。ニューヨーク・タイムズは記者がイスラエル軍の同行のもと、シファ病院の取材内容を伝えている。それによれば、イスラエル軍がハマスの拠点につながるトンネルの縦穴だと主張している場所を案内され、内部に電気の配線や金属製の階段も確認できたということだが、記者は「暗闇の中、その縦穴がどこにつながっているのか、どれくらいの深さまで続いているのかは分からなかった」としている。一方、病院内に残されている患者や医療スタッフと会ったり、インタビューしたりすることは禁じられたということであり、イスラエル軍の主張どおりハマスがシファ病院を拠点として使っているかどうかは不明と述べている。

戦争は圧倒的にイスラエル軍有利な状況で進められている。しかも、米国、ヨーロッパ主要国政府からの支持を受けているイスラエルはこれら強大国の支持を後ろ盾として、自国の正当性を国際世論へ頻繁に発信している。一方、国連と世界のあらゆる主要な人権団体はガザにおけるイスラエルの行動を日常的に非難し、イスラエル軍が戦争犯罪を犯していると非難している。

このような状況下においても、アメリカ国務省は、イスラエルがガザ地区の標的をより正確に攻撃するのを支援するとし、数億ドル分の誘導爆弾キットの売却を承認した。

未だ戦勝した訳では無いが、イスラエルが正義なのである。

国土を持たないイスラエルが何故歴史的にパレスチナの地とされた場所に建国できたか?

集団農場 キブツ
その裏には周到な戦略に基づくシオニストの国境を越えたロビー活動がある。近代史的には第一次世界大戦中の「バルフォア宣言」に端を発する。簡単に述べると,第一次大戦開戦から2年後の1916年、イギリス、フランス、ロシアの中央同盟国軍は、ドイツ、オーストリア、トルコの連合国軍に対し劣勢、消耗戦の様相を呈していた。

そのような折、ユダヤ教徒のコミュニティや個人が強力なロビー活動を行った。特に、ドイツ在住のシオニストがイギリスを訪れ、戦勝の暁にパレスチナの地にユダヤ人国家樹立を約束してくれれば、アメリカをイギリスの見方として参戦させる旨の提案をした。イギリスは当時実質的なパレスチナの統治国でも無かったが、この提案に乗り、ユダヤ人がパレスチナの地に自治政府設立することを承認すると発表(バルフォア宣言)。

一方、アメリカではドイツに好意的な報道が多かったが、シオニストの積極的なプロパガンダにより国内の反ドイツ世論が高まり、ついにドイツに宣戦布告(注)を行った。

(注)この事実は、イギリス外相が1917年11月にロスチャイルド卿(ユダヤ教徒)宛に送付した書簡が公開されているから事実に他ならない。
11月10日(by salonnsk3)
訂正:中央同盟国軍=ドイツ、オーストリア、トルコ   英、仏、露=連合国軍

続く

イスラエルの傲慢

今月24日に開催された国連安全保障理事会の閣僚級会合で、グテレス事務総長は、ハマスの攻撃が切っ掛けとなったことへの叫弾をしながらも多数の民間人が犠牲になったとして、イスラエル軍のガザ空爆を非難。そしてイスラム組織ハマスが拘束する人質の解放を促すためにも「人道目的の即時停戦」を要請した。25日現在、イスラエル側の死者数1400人に対し、パレスチニア側の死者数は5,500人に上り内2,600人は罪の無い子供である。

加えてグテレス事務総長は、そもそもヨルダン川西岸におけるパレスチニア自治区は、約55年前に将来的なパレスチナ国家建築のために準備された土地であったはずで、これをないがしろにしてイスラエルが強制入植を繰り返した挙げ句パレスチニアの自治、経済自立を阻害してきたことが根底にあると指摘した。

これに対し、イスラエル側は「国連との関係を見直す」と猛反発し、グテレス氏の辞任を要求した。

イスラエルの建国50年は、パレスチニアに対するジェノサイトであり、第二次世界大戦で自らが受けた苦難を弱者に対して行ってきた。アメリカでの政治経済をコントロールしながら、世界の秩序を壊すことは直ちに中止すべきである。何と言う傲慢な教徒!!

からすみとの出会い(トルコ編)出展:http://www.ima-earth.com/contents/entry.php?id=2009423181445

かれこれ四半世紀前、中央アジアのキルギス共和国へ戻る途中に立ち寄ったトルコイスタンブールの空港で巨大なからすみを発見して度肝を抜かれた。しかも安い。実は40歳にしてからすみを食したことが無かった。知ってはいた。しかし、高級なつまみに大金を払い、優雅に飲酒するなどと言う都会派とは別人種だった。

どれほど安い?全長30cm推定重量1kgで、30米ドル。これだと、分厚く切ってあぶりからすみもできる。何と言う贅沢。早速、ビシュケク(キルギスの首都)で世話になっている方への土産として購入。日本で見てきたからすみに対し、まるで親分からすみ! 

ボラは最大80cmにも成長するから、このサイズのからすみがあっても不思議では無いが、念のために調べてびっくり。なんと、マグロの卵で作ったからすみであった。だからなのか、記憶にあるからすみよりなんとなく色も浅黒くて、しかも容姿に親分の貫禄が感じられる。

ビシュケクに戻って直ぐ、お世話になっている方のアパートを訪ね「あぶりからすみ」でキンキンに冷やしたウォッカをぐっとあおった。ねっとりとした食感に、ほのかな塩みと、生ウニの味わい。さすが三大珍味。




マグロの卵の塩漬けと通常我々が目にするカラスミは製法も同じである。地中海の界隈ではボッタルガ(Bottarga)と呼ばれる。クロマグロやキハダマグロの卵が使用される。魚体が大きいのでボラの卵から作るカラスミとはサイズが異なるのも納得。
Bottarga: Wikipediaより参照

カラスミ発祥の地エジプト

エジプトは、40年前に始めて訪問してから6回も訪れた。しかし、仕事での訪問だったため残念ながら、ピラミッド観光は40年前に一度きりである。それでも、おおらかな時代と表現して良いか迷うが、私がピラミッドの石に興味を示していたことから、ガイドは徐ろに近くの石でぶつけて剥がれたピラミッドのかけら(石灰岩)を差しだした。この話はまた別の機会に。

カイロは、ナイル川からもたらされたの肥沃な土壌の恵みを受けて農作物が豊富で、畜産も盛んである。紀元前から発展する都市文化が食についても発展させてきた。その話は、今後記すとして、今回はカラスミを紹介する。何故なら、エジプトはカラスミ発祥の地と言われるからで、今でも地中海に面したアレキサンドリアを中心としてカラスミ製造工場が何社かあり、国内はもとより近隣諸国やEUへ輸出される。その内の大手を商工会議所を通じアポイントを取り訪問した。アレクサンドリア市内からも近くにある平屋の作業所に併設された事務所があるのみの会社で、個人経営。社員は殆どが加工作業に携わる。カラスミの他に発酵させたボラ(?)フィシク(Fesikh) や、アジの酢漬けなどを製造。
因みにこの会社のカラスミはカイロで宿泊するホテル近くのスーパーにも大量に入荷していた。200グラムサイズで1500円程度(2010年頃)。カイロのスーパーで購入した同社のカラスミはどちらかと言うと多少色が濃いめだが、味はまったりとしたチーズ。白ワインにぴったりの味と言った方が良いかと。日本でも好評だった。